売り場を知る
2016.11.09.水

episode.1 怖かったはずのあの人

 ドラッグストア歴1年3ヶ月。日用品担当のパート勤務。それが私です。

私には苦手なお客さんがいます。いえ--正確には、先日まで苦手でした。
今回は、1年前から付き合いのある、とあるお客さんの話をしようと思います。

   それは、まだ勤め始めてから3ヶ月目くらいの頃。ようやくドラッグストアの仕事にも慣れ、ときどき失敗しながらも少し仕事が楽しくなってきた日のことです。
ようやく手書きPOPが書けるようになってきた私は、床でデカPOPを書いていました。
最初、先輩に実演を見せてもらった時はびっくりしましたが、大きいPOPは書くための手ごろな机が無いので、ほとんどのお店では床で書くんだそうです。

今まではレールに付ける小さい手書きPOPばかり作っていましたが、『上達してきたから大きいPOPも書いてみようか』と先輩に言われて、今回はじめてデカPOPに挑戦です。初めての作業はいつもドキドキします。
慣れない大きさゆえに何枚か失敗しながらも、なんとか納得のいく形の字が書けたので、いよいよ清書をしようと思ったそのとき。 「ちょっとアンタ」

 振り返ると、40歳くらいの男性が私のほうを見ていました。
呼び止めた声は少し怒気をはらんでいて、表情も眉が立っていて、なんだかお怒りのご様子です。 「お客さま、いかがされましたか?」 男性の態度に少しとまどいながらも、営業スマイル。『どんなときでも笑顔を絶やすな!』がモットーの先輩に教育されて数ヶ月、たぶん上手く笑えていたと思います。
「そこの棚の商品は?」  言われて視線を追いかけると、きれいに陳列されている棚に1箇所だけ、商品の無い部分がありました。欠けていたのは定番品の粉ミルク。そういえば昨日の連絡ノートに、売り切れたから補充よろしくと書いてあった気がします。開店前に補充するのをすっかり忘れていました。

「昨日の夜、買いにきたら売り切れていたから出直したんだけど、まさか…今日も無いのか?」
「申し訳ありません、明日には入荷すると思います。ご不便をお掛けします」
咄嗟にそう答えていました。ああ、自分が嫌になります。バックヤードに在庫はあるのに、怒られるのが嫌で嘘をついてしまいました。

しかもこんな回答をしてしまったら、今日一日は補充ができないこと決定です。もう少し上手い言い訳はなかったんでしょうか。我ながら情けない限りです。 「おいおい……在庫チェックくらいしっかりしてくれよ。困るんだよ!頼むよ!」そう言って、足早にお店から出て行ってしまいました。

……申し訳ない気持ちでいっぱいです。そりゃ怒りますよね。昨日も今日も目当ての商品が無い状況。そして、欠品している棚の前で、手書きPOPを作るのに夢中になり、声を掛けられるまでお客さんが近くにいることにすら気づかない店員。 あんなに焦っていたのですから、おそらく家で赤ちゃんが待っていて、近くのドラッグストアであるココに来たのでしょう。
失敗したなあ……。    二度と失敗を繰り返すまい……そう心に強く誓った私は、この事件以降、開店前の商品補充は欠かさず行うようにしました。
後ろめたさもあったので、乳児向けの商品に関しては多めに発注して、欠品しないよう備えるようにもしました。いや、売上に関係無い理由で贔屓するのは、良くないことだと分かってますけどね?このへんはスタッフ裁量なので、少しだけ好きにさせてもらっちゃいました。

補充忘れ事件が起きた後も、男性は結構な頻度で来店され、ベビー用品を購入していきます。やはり小さいお子さんがいるのでしょう。
しかし、苦手意識を持ってしまった私は、店内で姿を見かけるとバックヤードに戻ってしまう癖が付いてしまいました。なにせ、初めて面と向かってお客さんから怒られたのです。心が弱いと言われてしまえばそれまでですが、会わなくて済むならそれに越したことはありません。そもそも日用品担当ですから、美容部員の方や薬剤師の方と違って、常に表に立って商品を解説するような役割もありません。そう、商品さえ切らしていなければ大丈夫。
もちろん向こうはコチラのことなんて覚えていないことでしょう。商品が切れた。だから近くにいた店員に不満をぶつけた。たったそれだけです。顔なんて記憶もしていないに違いありません。
それでも、私のほうは覚えているわけで。そして苦手意識を持っているわけで。避けてしまうことを誰が責められましょうか。

そんな感じで今日まで1年間、なんとか顔を合わせずに働き続けることができていたのですが、油断しました。
まさか、女性同伴で来るとは。そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、いつも男性お一人様で来るので、完全に2人1組の人影に警戒していませんでした。

気づいたときには目が合っていました。相手もこっちを見ています。近づいてきます。なんでしょう、また失敗してしまったのでしょうか。何かやらかして、また至らなさを指摘されてしまうのでしょうか。ああ、完全に私に用がある感じです。わき目も振らずにコチラにやってきます。怖いです。 「おいキミ、やっと会えた!」
……そのとき、私はさぞ間抜けな顔をしていたことでしょう。  怒られると思っていた相手から、満面の笑みで声を掛けられたのですから。
「今日はお礼を言おうと思ってね。前に1度、品切れがあったときに怒ってしまっただろう?あれから1度も品切れにならなくてビックリしていたんだよ。爆買いとやらが世間で話題になって、粉ミルクが全国的に品切れを起こしていたにも関わらずだ。キミだろう?商品を補充していたのは」

なんと、男性は私のことを覚えていました。 「ありがとう。おかげで先日、無事に娘は乳離れしたよ。ほら、キミも礼を」そう言って、横に立つ女性に促します。
「ありがとうございます。この人、急な買い物を頼んでもすぐに買ってきてくれるから不思議だったのだけれど、あなたのおかげだったのね」
その言葉を聞いて、ずっと感じていた後ろめたさがスっと抜けていくのが分かりました。  
よかった、あの日の失敗は取り戻せたんだ……。

乳児向け製品が不要になったのでしょう。以来、男性がお店に顔を出す機会は減りました。
ただ、それでも2、3週間に1度は来店され、今では見かけたら挨拶する仲です。あんなに苦手意識があったのに不思議ですね。

そしてなんと、お子さんは先日、一人で歩けるようになったとか。
もう少し成長したら、一緒にお店に買い物に来るというお話もいただきました。
私が発注し続けた粉ミルクを飲んで、健やかに育ったであろう赤ちゃんと会える日も、そう遠くないかもしれません。なんだか楽しみですね。

episode1

illustration : eim

この記事は...

物語はフィクションです。